和54年07月05日 朝の御理解



 御理解 第89節
 「此方の道は傘一本で開く事が出来る。」

 どういう不安または心配、心が千々に砕けるような問題を持っておっても、御取次ぎを頂いて、御理解でも頂いて、おひとつのると心が安らぎます。それでもやはり御取次ぎの権威とでも申しましょうか、御取次ぎの働きの絶対と申しましょうか、そういう権威あるいうならば、御結界御取次ぎ、又は御結界を通して、いわゆる御取次ぎを頂いておかげを受けるという、御取次のいうなら働きを信ずると言う事。
 そこから日頃頂いておっても、やはり心が色々迷うて居る様な時でも、ご理解を頂くと腹が決まったり、心が安らいだりする、そこにおかげを頂くいわば元があるのです。心が安らぐと、心配を神様に預ける事が出来る。けれどもそれはねいうなら、一本の傘を借りて帰った様なものですから、又すぐ神様から取り返されるような感じ、又はお返ししなければならないものであるように、いつまでも又次の問題が起こったり、又次の心配がでけたりすると、又同じ事を繰り返さなければならない。
 その段々繰り返しを重ねていくうちに、いよいよお取次を頂いての、その働きというものを確信する事が出来るようになる頃から、私は教えの尊さというか、教えの有り難さというものが身についてくるんじゃないかと思います。まぁなかなか初めから教えを頂き守るということは出来ませんけれども、やはりおかげを頂いてね。それも繰り返し繰り返ししてゆくうちに、どんな心配な時であっても、お取次を頂いとりますから、安心しとりますと言う程度の安心。
 けれどもそれはいわば本当の、まぁ言うならここでいわれる、傘一本と言う事ではないと思う。私はこの傘一本で開ける道と、私はですから、もうこの一本の傘を自分のもの にしてしまうと言う事ね。そこにはやはり、繰り返し繰り返し、いうならばお取次の働きの間違いなさ、又お取次を頂いて頂く、そのご理解というものが、だんだん身についてくる。そしていうならば、神様の絶対性。いうならば絶対信というものが、生まれてくる。
 それが自分の心なかに、いつでもどの様な場合でも、この絶対信をもって頂けれるようになった時に、私は傘一本が頂けたんじゃないだろうかとこう思う。昨日は神愛会でございましたから、昨日はいつも見える先生方が、殆ど昨日顔が揃うて共励しまして皆さんのお話も聞かせて頂いた中に、私がお話をさせて頂いて、もう先生方にはどうでもね、やはりお徳を頂かれるより外にない。ね。山口の長田先生が発表しておられましたが、そのお夢を頂いたと。「徳川三百年」という事を。
 そしてその鵜飼いですね、鵜の鳥を頂かれた。どういうことかその分からないけれども、何かそれこそ深い意味ありげなお夢であったというのです、ね。私は思うんですが、今天の心地の心と、とりわけ天の心と言う事が、今合楽でその事が言われておる。それを貴女は山口にあって、神様からお知らせ頂いておられるのですよ、と話した事したけれども。例えばね教会を持ち、教会長としてのいろんな責任。または教会の立ち行きと言う事を、願わない教会長はありませんけれども。
 とにかく自分自身というものは、もう神様にもう委ね任せておらなければいけない。昨日も最近お参りしてみえる先生が、まぁここの土地を買うときゃ値上がりすると言う風に聞いてからまぁそれこそ無い金の中から手付を打ったり、登記をしたりされた。所がそこが何か市の計画に入っておる土地かなんかだってで、今問題になっておるとこう言われる。まぁ恥ずかしい話ですけれども、まぁこんな事を重荷になっておりますというお届けでした。
だから、もうそりゃその場で、私しは本当に、合楽の信心を知っておられる先生なら申しますけれども、まだ二、三回しか見えてない先生でしたから。それはね、後金も払いなさい。そして結局自分の物にしてしまいなさい。と言う事を私はお取次させて頂いたんですけれども。教会の先生がね、ここば買うときゃ、値上がりするじゃろうけんで、ち言うちから、利殖の事どん考えよたっちゃ、人は助かんですばいち、私は言いたかったんですけれどもね。
 それに引き換えて、その山口の先生が頂いておられるのは、もう教会長、これは教会長に限らんのですけれども、最近言われる天の理と言う事が、天理教の教祖の御信心のあられ方というものを、私は直感して、天理教の一番素晴らしいのは、「ひのきしん」にあるのだと、ひのきしんというのは、どんな紳士も淑女も、あの法被一枚をまとうて、そしてどういう所でも御用される。そのいさぎよさというものがいるし、同時にそのひのきしんというのは、無条件に神様に捧げる奉仕の事である。
 だから天の心というのは、それこそ無条件で、限りなく私共に与えて与えて止まない、 いうならば心だと私は説きます。ですから私共がただ天の心が美しい心、美しいい心ばかりではなくて、それがいさぎよう無条件に、言うならば捧げられれる心と、言うものが頂けて始めておかげ。だからいうならば度胸がいる。長田先生どうでもひとつあのう教会の御比礼を頂きたいならば、鵜の鳥にならねばいかんですよ。
 私が椛目時代まだ親教会とのいろんな問題があって、親教会にもお参りできない、ただ月々御本部参拝をさせて頂くとが信者一同の楽しみであった。と言う様な時には、もうお参りするたんびんに、有金の全部がお供えでしたよね。私は。もうお賽銭箱ひっくり返してでした。これは言うならば、鵜の鳥の生き方だと思うですね。一生懸命働いて、いっぱい働き貯めた。それを結局皆なしぼり出されてしまう。けれどもそこにはね、鵜の鳥を飼うておる飼い主というのが、絶対餌を与えない事はないと言う事。
 しかもそれは食べ過ぎらんよう、また足らないような事のないように、ちようどいい具合な、いうなら配剤というものがあるんだと、これを言うならば、天の配材とも言うのだと。天の言うならおかげを頂きたい為にはね、特にこれは教会長として、分からねばならない事は、自分の物とは一切、お広前も一切合切が、神様からのお預かりものとしてのおかげ。だからそれを、なら貯金をしてはならんとか、金が溜まっちゃあいけんと言う事じゃあない。
 けれどもいつでもどんな場合でも、いざという時には捧げられる、内容のものでなければいけないよ、というお話をしたんです。なかなかいさぎよい心。本当に神様がこれば出してしもうたなら、後は食べられんごとならせんじゃなかろうか、と言う様な不具の念というものが、やっぱり起こるんですけれどもね。それを私共が小さい事から、段々大きい事へと、それを稽古を繰り返ししてゆくうちに、いうなら生れて来るのが絶対信である。もう自分の物が無いというぐらい気楽な事はないです。
 あれが犯されよう、犯される心配が無い。はぁこげんして貯めよるばってん、息子が使うちしまやせんだろうかとか、泥棒にあいだんせんだろうかと言う様なね。それはいつも「無一物我」という自覚である。我の物というものは無一物だってない。一切が神様の御物でありお預かり物である。という所にです。だからいざ神様が、さぁという時にはもういつでももうそれこそ、まぁ言うならば全財産といいましょうか、全財産にいつも熨斗がかけられているような心持ちの事なんだ。ね
 私がその当時、いよいよ確信的に感じさせて頂いたのは、それであった。成る程後は神様が見て下さる。いうならば鵜の鳥になると言う事は、こんなにも素晴らしい事だと。段々その働きが垢抜けをしてくればしてくる程、その神様からの、お賄いもいうならば。垢抜けのしたおかげを頂かせてもらうようになる。神様がお粥さん程度の物を与えられておったのが、いうなら麦飯程度の物が与えられる。次には白いそれこそあの銀飯と言った様なね、あの時分昔は。
 与えられるような、おかげにも段々なってくる。それには段々と副食も、それこそこれが山海の珍味であろうかと、言う様な物がそれにはついて来る様なおかげにすらなってくるのだと。鵜の鳥の信心とは、こういう長田先生素晴らしい事だから、ここは一ついうならば度胸をつけねばいけません。今合楽で説かれておるのは、天の信心その事ですよと言うて、まぁお話しをした事でした。だからいうならばこの一本の傘を頂くと言う事はね、けちな信心では絶対頂けないと言う事。ね。
 いつも算盤ばかりもって、こうはじいてるような信心からは生れない。それこそいさぎよさ、ね。でないとね私共の心、そういうところから神様が、絶対成る程神様のお賄いを受けておるんだなという実感が、言うなら神様の絶対性を、いわゆる絶対信をもって受ける事が出けるようになる。ね。そして先日から丁度大祓いの式の日に、丁度入院しております末永先生の病院代が請求されとったから、公子先生が「明日でもよい」ち言いなさったとこう言うんですよ。
 だから「そげなこつじゃなかばい、今日払わんの」ち私が、今日は大祓式にお取り払いを頂くとじゃから、今日がよかばいち。と言うて申しました事。家内と公子さんにこうやってお金を渡しとかにゃいけないよ、「いくらだんかかるだろうか」「いくらかかるじゃろうか、今日は出来るだけ多かがよかぞ」ちゅう話しをしたのです、その話を昨日したんです。その話しを昨日させて頂いた。どうしたらそげな心になれるじゃろうか、と先生方が そういう顔をして聞いておりました。
 けれどもね、本当に神様が分かり、信じられれば信じられる程、それが実感なんですから私の。そしてこの頃地鎮祭の時に、修行生の先生が、その千徳というお酒が来ておりましたですね。あれを鏡開きをして、皆に頂いてもらったけれども、まぁ一斗位しか飲んでなかったでしょう。私はあまり美味しかったから、明くる日一杯貰おうと思うたら、無かち言うもん。「どうしたの」ち言うたら、みんなこぼしてしもうたち、取り落ていとるわけたい。そりゃあぁた鏡が外れとるとじゃけん。
 それこそ一滴も残らんごつこぼれてしもうとる。そん時に私はどうした事ね、と言う事をこれから先も思いませんでした。いやぁおかげ頂いたというのが一番の直感でした。なぜって地鎮祭でしょう。しかもお土地が頂いて下さったんでしょう。こげな有り難いこつ、昔から酒がこぼれただけでも言うならば、はぁ目出たいとかお祝いとかと言うじゃあないか。しかもあぁた千の字いっちょがこぼれたつじゃけん、こげな有り難いこつはなかばいち、私は申しました事ですけれども。
 これは私のその時の実感です。そして私は申しました。お徳を受けると言う事はね、もうどういう場合であっても、一本勝負だと言う事です。今日の御理解「傘一本」と言う事を、今日は「一本勝負」と言う事で聞いて頂きたい。どんな事があっても「おかげ」と一本勝負で頂ける。ね。例えば鴨居で頭を打った。あぁ痛よが出た時にはもうおしまい。もう打った痛い思いがした途端に、「すみません」と言う様な心が出るような、おかげをだんだん頂かねばだめだと。ね。
 痛い思いがした時に、「あ痛た」と言う前に「すみません」、神様がたたきなさったつ じゃから言うならば、だからわけなしに神様がたたきなさるはずはないのだから「すみません」が一ばんぐちに出らなければならん。それが聞いたから教えられたから出るもんじゃない。ね。それこそいさぎよいいうならば信心。天の心の言うなら限りなく与えて与えてやまないような、無条件のいうならば、ひのきしん的な信心が、身についてはじめて神様が確信出来る。
 あるものは神様の愛だけだ。今日は御神前で『開けてみれば愛』と言う事を頂いたのです。テレビでやっておりますよね、何かサントリーの何かウィスキーの何か宣伝を、何か有名な歌手が歌っている、歌の題名じゃないでしょうか。開けてみれば愛。私共の場合どういうそれが問題であっても、どういうきつい事であっても、苦しい事であってもです開けてみれば愛です。神愛以外にないです。
 だから、神愛以外にないという事を道理をもって聞かせて頂いて、それが自分の血に肉になってしみこんでくる時に、始めて即おかげとして頂ける。一本勝負。おかげは「あぁ痛よ」と言うた後でも、後からでもすみませんでもいいわけですけれども ね、お徳というものはそんなもんじゃあない、お徳を受けると言う事はね。一本勝負。ちょっと待って下さいと言う事はない。それこそ私し共分からせて頂く、どういう場合であってもです。開けてみれば愛なのですから、神愛なのですからね。
 それを神愛と悟る所には、いうならば不平も不足も、又は苦しみすらも無くならなければならないわけなのです。勿論欲しい惜しいなどは、さらさらないと言う事にもなってまいりましょう。そういう所を通って、始めて傘一本が与えられるのじゃあないでしょうか。傘一本持っておる。どんなに曇ってきても、いつ降ってもよいという心がある訳です。傘一本持ちませんと、少し雲行きが悪くなってくると、さぁどうなるだろうか、もう降りはせんだろうか、濡れはせんだろうかと不安で心配でたまらんのです。
 だから、そういう傘を頂ける事の為に、先ずは一本一本の傘でも借りたら、安心が出来れる。先ずは信心。お取次を頂いても、先生はあぁ言いなさるけれども、というて「けれども」がついて、やっぱり心配を持って帰るような程度の信心から、それをくり返させて頂いておるうちにです、おかげを受けてまたおかげを受けていくうちに、成る程お取次の働きというものは、こんなに素晴らしいもんだと、言う事が分かってくるから、お取次を頂く、即そこに生れるのが、安心。
 安心と言うよりも、安全感と言った様なもんでしょうね。安心感です。本当の安心ではない。信心でいう本当の安心は、『開けてみれば、愛』それを確信できた時なんです。それには、神様のいうならば絶対性。お取次を頂いてお取次の働きというものが、こんなにも絶対なものだという事が、だんだん確信されて来る様になっての信心。そういう信心を目指させて頂くのです。だから自分の心の中にいつも定規をあててみるとは、自分の頂いておるいうならば信心、安心というのは。
 はぁまだこの程度のものだったなあという事が分かるのです。だからそれをいよいよ本当なものにしてゆく事の為に、小さい所からでもよいから、捧げる信心、ね。わずかな事からでもよいから、いうならば身を削る信心、しかも削ったからどうと言う事じゃあない無条件。いうならひのきしん的な、いうなら信心がお道の信心によって身についたら、私共の場合、土の信心というものを基礎としての、天の信心ですから狂いのないおかげ、ね、鵜の鳥になる。
 これはやはり、こげん出してしもうたら後はどげんなるだろうか、と言う様な不安がないわけじゃあないけれども、そうさせてもらわずにはおられない。ね。先日の昼のあのミニ御理解の中にもございましたよね、自分が憧れる。神様にそのあこがれておる者の前には、惜しいもなからなければ、欲しいも無くなってくるもんだと。という御理解がございましたように、惜しい欲しいを取り払わせてもらう。
 それは、そのまま我情我欲をとると言う事にもなります。その向こうには神愛あるのみである。開けてみれば愛である。その愛をいよいよ確固なものに、しかも小さいものへと大きいものへと育てていく事にお互いの生涯の信心がですね、育っていかなければならんという事です。ただお取次を頂いておかげを受けるということの信心から、いうなら一本の傘を借りる信 心からその一本の傘を自分のものにしてゆく事の信心を、その次には目指さなければいけないと思いますね。
   どうぞ。